「作者の人間性と作品の評価は別」だけど「嫌いな人間の作品は買いたくない」という話

クリエーターが炎上したり逮捕されたりするたび目にする「作者の人格と作品は別に考えるべき」という意見。

これ自体はもちろん、ド正論だと思います。

好きな作品の作者が実は極悪人だったとしても、作品に触れたとき自分の中から生まれた感動は確かなモノなはず。それを後から作品に関係のない理由で否定するのはおかしな話です。

その一方で、この論調って変に理性的すぎるというか、自分に嘘をついているような違和感を覚えていました。

今回はそこんところをちょっと考えてみます。

スポンサーリンク

嫌いな人にお金を払いたくない

「作者と作品は切り離して考えるべき」という正論にどこか引っかかりを感じる理由。

それはやっぱり「人間性が受け付けない作家の作品には触れたくない」という単純な感情論から来ていると思います。

もっと突っ込んで言えば、いち消費者として「こんな奴には一切お金を落としたくない」というのが私の本音。

評論家でもない限り、「作者が嫌いだから作品にも関わらない」は当然の判断じゃないでしょうか。

これが「作者がクソだから作品もクソ!見たことないけど絶対クソ!」まで行くとただの迷惑なアンチなのでアウトですよ。

ネットの発達による作者の透明化

ただ、私も昔からこんなこと考えていたわけではありません。

というか昔は作家の人物像が自然に耳に入ってくることなんてほとんどありませんでした。漫画家で言えば、単行本に載っている作者近影とわずか数行の近況報告くらいです。

探せばインタビューなんかはあったんでしょうが、そもそも作者の人物像自体に興味なかったかも。

しかし、ネットの発展により個人の透明化が大きく進みました。特に、いつでも気軽に意見を発信できるSNSと作家等の職業は相性が抜群。Twitterに張り付いている時間が一般人よりも長いであろう有名作家も多々見受けられます。

そして、炎上でもしようものなら即座に情報として拡散されるでしょう。

作者の言動や人間性が嫌でも耳に入ってくる時代の到来です。

そして、作者の人間性が原因で作品に対する熱も冷める、ということも私は実際に経験してきました。

キン肉マンに見るコンテンツ飽和時代

この「作者の言動が理由で作品への熱が冷める」の実例をあげると、ネタバレスクショを発端として物議を醸したキン肉マンが記憶に新しいですね。

多くを語る気はありませんが、紆余曲折あったこの騒動の結果、私は「もう二度とあの作者の作品を読むことはない」という結論に至りました。

実際、読み続けていたキン肉マンもアレ以降は読んでいません。

もちろん「作者なんて気にせずに漫画だけ読み続ける」という選択肢も当然ありましたが……

今の世の中って面白そうなコンテンツに溢れています。興味はあるけど時間がなくて手を出せない、そんなことが当たり前の時代に「作者が嫌い」とか「作者が炎上しがち」みたいなマイナス要素って割りとデカイんですよね。

ネット社会とコンテンツの供給過多。2つの要素が合わさった結果、作者の人格は作品を選ぶ基準の1つになり得るんじゃないかと思います。

今は「好き」にお金を払う時代?

この件を考えていて気づいたのは、逆に「好きな人」にお金を落とす流れがここ数年で強まっているんじゃないかということ。

YouTubeの投げ銭やAmazonの公開ほしいものリスト、pixivFANBOXなんかがわかりやすい例でしょうか。

お金を払わなくても配信は見られるし、お金を払ったからといって配信がさらに面白くなるわけでもない。500円の支援プランに入るより本を1冊買ったほうがコスパはいいはず。

そんなコスパよりも「感謝」や「好意」や「応援」の気持ちをお金として伝えるという文化が一般的になってきました。

言い換えれば「人として好かれる努力」も重要な時代なのかもしれません。